この種のホームページにこの様なページを設けるのは異例かも知れません。倶知安の町を考える時、ひらふスキー場を除外し未来の町を私は考えられず、加えて四半世紀25年間勤務したBOSS 寺岡 四郎社長の元で仕事し、スキー場の生い立ち、なによりも「人としての生き方」を教えていただきました。

 

 その様な思いから、このページではひらふスキー場の裏話、出来事など、余り表舞台に登場していない事柄なども紹介したいと思っています。業界ではBOSSを知らない方がいない程のワンマン社長でしたが、この町を思う気持ちは人一倍強い思いを持っていました。

BOSSの胸像です。私が以前暮らしていた自宅の居間に置いて撮影した時のものです。作者は日本を代表する彫刻作家 富永 直樹先生です。BOSSと富永先生の出会いは常人では想像もできない、BOSSの人柄を最も物語るエピソードと思っています。

 

 BOSSが東京滞在中に呼び出され出向き、一度だけ、富永先生の自宅兼アトリエにお伺いしました。この胸像製作中のアトリエには凡そ4mもあろうかと思う、大きな観音菩薩像があった事を鮮明に覚えています。BOSSの上着左胸のフラワーホールに付けている、アルペンの社章、リスマークもそのまま再現されており、人間の指、いいえ芸術家の指に驚きました。

昭和36年、ひらふスキー場に初めてのスキーリフトが建設されることになりました。同時に現在、町営スキー場の「旭ヶ丘スキー場」には、ひらふスキー場にリフト建設する「ニセコ高原観光株式会社」(※以下、単に高原と言います。)社長 竹中 治氏と共にBOSSはロープ塔を運営する「株式会社ニセコリフトサービス」を設立しています。BOSSは後に高原の取締役にも就任しています。

 高原のリフト建設資金は、竹中氏(日東商船株式会社※ジャパンライン前身会社名) が社長務める会社から出資し、スキー場の現場運営は、現地の多くの方々がその任を担いました。

東京の竹中治氏から速達で送付されてきた封筒には、登記申請書が同封されていました。速達郵便の切手の絵柄は飛行機です。40円で速達が送れた昭和36年。

 

 この一枚の手書き登記申請書には関係者夫々の思いが込められていたんだと思います。

住所の横に「日本ファイバーアングル工業株式会社」と書かれています。この会社こそが、ひらふスキー場にスキーリフトが初めて建設される大きな関わりをもっているのです。※ 正統派ひらふスキー場の歴史は、グランヒラフのホームページに紹介しているページございますので、是非、ご覧ください。

 

この先、時間をつくり今日に至るまでのひらふスキー場を知りえる限りの出来事を紹介してまいります。更新した際にはブログでその旨ご案内する事と致します。2019 3.18