Profile

ホームページでは、情報量も多く掲載できますので、紙媒体でご案内している自己紹介以上の生い立ちを紹介させていただきたいと思います。

 

昭和29年8月8日生まれ 二人男兄弟の長男(世に言う愚兄賢弟)

 秋田県男鹿市にして出生 ナマハゲの恐怖は体験しています。しかし、今でも記憶しているのは、その恐ろしいナマハゲを父親が、宥めてくれるのを見て、一気に父親への尊敬が決定的になりました。笑

昭和48年 北海道立登別高校卒業 (現在は、北海道初の道立中高一貫の登別明日中高当学校)

※幌別中学校入学と同時に冬以外はサッカーに明け暮れ、卒業の際に登別大谷高校から、サッカー特待生入学の話しを、担任の先生からいただくも、お断りし登別高校で3年間サッカー続ける。

 

小学校低学年から冬はスキーに夢中になっていた。初めてニセコひらふスキー場に滑りに来たのは、中学校三年生の冬休み昭和45年でした。廃線となった胆振線に伊達紋別駅から倶知安まで乗車し、ニセコ高原ヒッテの二段ベットの部屋に2泊し、その雪質と多さに度肝ぬかれました。

 

 昭和47年、高3の冬休み、北海道以外を滑ってみたく、長野県の志賀高原熊の湯スキー場にある志賀パレスホテルに冬休みのアルバイトさせていただきたいと手紙を出し、採用してくれ約3週間、忘れられない冬休みを過ごす。翌年、2月には高校卒業式までの休み期間、クラスメートのA君、I君が志賀高原に行きたい、と熱望するので、再び3人で出稼ぎに。

 

 高校卒業後、小学校の頃から自分の一生涯はスキー SKIに関われる仕事に就きたいと思っていたので、まずは少し勉強からと、当時日本には3校しかなかった、観光専門学校の一つ、国際観光専門学校 観光経営科に入学し、同時に熱海ニューフジヤホテルの委託奨学生として入社する。

 

 この制度は、ホテルの社員として朝、2時間、夜4時間一日6時間の勤務につき、日中9時から4時頃まで専門学校で、授業うける、というものでした。ホテルの寮は学校とホテルの中間に位置し、全国から若者が集まっていました。

 

昭和49年3月下旬から同年10月中旬まで、6ヵ月間のスイス ジュネーブでのホテル研修に参加(専門学校がスイスホテル協会と提携し、学生をスイス国内各都市のホテルで就労させ、観光立国スイスのサービスレベル研修を目的としていました)滞在期間中、スイス国内の旅行などを通し、観光立国を視察する事ができました。研修終了後には、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ(ニューヨーク、ロサンゼルス、カルフォルニア、ハワイ)を15日間かけ、著名なホテル視察、観光施設見学等を終えて帰国。

 

 帰国後、ニューフジヤホテル メインダイニングにて勤務しホテルサービスの基礎知識を学ぶ。

 

昭和52年12月 いよいよスキー場で勤務する思いが募り、当時のアルペン山荘に入社する。

 ※ アルペン山荘を就職先としたのには訳があり、遡る事中学校3年生の冬休み。兎に角スキーを滑りたい、でもお金も無い。アルバイトに挑戦とばかりに山荘に「ダメで元々」で手紙を書いた。なんでもします。お金もいりません、食事と寝る場所を提供してください、とその様な内容だったと思う。返事も貰えない、とも思っていたが、一枚の官製はがき裏面にビッシリと書かれていた文章は、中学生の住み込みアルバイトは採用はできませんが、なんたら、こんたら、と単に採用できない、ではなくそこには少なくとも、自分の思いを受け止めてくれた言葉が並んでいたと記憶している。返事をくださったのは、入社後に本当に面倒みてくださった、故人となってしまったが、「永江専務」だった。入社して暫くしてから、その話しを永江さんに伝えたら「そんな事もあったかもしれないな」と。

 

       【山荘からホテルニセコアルペンに】

 昭和50年の進学就職新聞で、成人式を迎えた働きながら学ぶ若人、と題した座談会にホテルの人事課長から、私と友人の白井君に行ってこいと下命があり、東京 帝国ホテルで開催された会に行った際、将来はスキーしながらスキー場で宿を経営したい、と話した記事が掲載されている。

 

 確かに自分の宿を持つのも夢であったが、アルペン入社後、山荘がホテルとして建て変わり、ホテル営業、そしてスキー場の宣伝企画、など自分の宿を持つことよりも、そちらの仕事が面白く、結婚後もホテルの仕事を続け、昭和63年に現在のひらふスキー場のセイコマートから徒歩3分程度のミッドタウンに住宅新築して暮らした。この場所を選んだのは実に簡単で、退職後、徒歩でスキー場に行ける場所に、と言うことであった。

 

平成4年、室内温水プールを完備した新館がオープンし、仕事の範囲も広がり、社内においては総務、経理なども担当した事が今となっては代えがたい体験ができたと思う。会社特別解散に伴い東急リゾートサービスに転職する。

 

平成25年退職までの9年間、冬期間はウエルカムセンターで総合案内担当、夏期間はゴルフ場勤務で、好きなゴルフを仕事として体験できたことは良い思い出になっています。

 

 海外からの不動産投資が増す中、ミッドタウンで暮らした25年間の間大変お世話になってきた、近所の方が不動産売却する方向、と聞き自分の箍が外れました。恐らくは売却後は海外不動産が所有することになるし、周辺の環境も大きく変化してきたので、ならば自分も自宅売却ができるのなら、小さなサイズでも宿経営ができたら、と思い色々と調べ、開業の目途がつき、平成26年に開業し今日に至っています。

 

 現在、町内で二人の娘達は夫々に家庭をもち、孫7人は5人の男子と娘夫々の家庭の末っ子に姫が誕生し、白雪姫は7人の小人さんと友人になりましたが、私は7人の孫を持てました。孫の存在が自身の健康、仕事などの一番の励みと感じています。孫全員の結婚式と1人でも良いのでひ孫を見てから、目を閉じる事ができれば、我が人生に一点の悔いなし、となるのかな。

 

 自分の子供を育てていた時には自分の子供が一番かわいいと思っていた。しかし、孫を持ってからというもの、孫と同じ世代の子供達が全部、孫と同じ位にかわいいと感じている。この感情はとても不思議な思いです。何故、そう感じるのか全く分からないのです。

 

 今、この町で暮らしてくることができ、良かったと私は思っています。そんな思いをこの町で暮らす全ての住民の皆さまの子孫、そしてこれから100年先に生きる人々に、しっかりとした町を引き継ぎたい、町づくりに今までとは違った立場から参加したいと心底思っています。

平成7年8月の週刊誌巻末の見開きをケースに入れ自室の壁に掲示しています。ご覧になっても、ナンダコレ、と思われる事と思います。

 

 1985年8月12日 日本航空123便。乗客乗員524人を乗せたまま群馬県の御巣鷹山に墜落し、520人の犠牲者を出した、747ジャンボ機の与圧隔壁を事故現場から回収し復元した、事故機の隔壁そのものです。

 

 事故機は1977年に大阪伊丹空港でしりもち事故を起こし、その修理に派遣された米国ボーイング社からの技術者たちは、破損した隔壁、「2cmを板を継ぎ足し」うわべを装って修理を終えた。

やがて金属疲労を引き起こし、与圧隔壁が破壊し尾翼が吹き飛び操縦不能に陥った状態で墜落した。たった2cm。修理の際、隔壁全体を交換実施しいれば事故は起きなかった。技術者たちが自分たちの仕事の結果を想像していたとしたら、きっと交換していたかもしれない。人はどんなに注意し用心していても過ちは犯す。しかし、過ちを犯さないに、幾重の監視、検査体制があるハズと考えている。私たち日常の暮らしにも、「たったこれだけのことが」は多く潜んでいる、と思っている。用心に越したことはない、日々その戒めとして毎日見ている隔壁です。※日本航空では事故からの教訓として新人研修に社内展示しているそうです。合掌